Krishnamurti 絶え間なき観察     Ver 1.3


あたりまえな日常生活の最中で、関係の最中で、不断の自己(=反応の)観察




日中を通して、心は鋭く、素早さをもって、注視し、傾聴し、挑戦に応じてゆく。
自分の思考や感情の動きに注意し、心の奥底のどんな動機にも、
どんな些細な欲求、心のうごめきにも、見逃すことなく気づいている。
人の話を聞いたり、おしゃべりしたりしているときでも、散歩しているときでも、
あるいは不快感や羨望が生じたときでも―いつでもです。

自分にとって不快な言動に出会った際の自分の反応、
本を読んでいて「○○教など、ナンセンスだ!」という一節に出くわした際の自分の反応、
こうしたものすべてに気づき、
そこに含まれている意味が分かるほどに観察力は鋭くなければなりません。
バスに乗っているときでも、妻や友人と話しているときでも、テレビを見ているときでも
―いつでもです。

大空を渡る美しい雲の動きを眺めるのでしたら、それを完全に鑑賞し、
同時に自己の内外に生じてくるあらゆる変化をも捉えられるだけの注意力が必要です。
そうしてはじめて、夢を持つことのない完全な睡眠と、
柔軟かつ強靭な、みずみずしい心とを持って生きるということが可能になるのです。



判断や非難なしに、
私たちの行為の仕方、会話、様々な感情、隠された思考に実際に気づいていること。
隠れた感情が後ろに押し込まれるのではなく、前に招かれ理解されるように。
心静かに注意深く見ていることができるなら、そのとき心は本当に静かになるのです。
そして、そのときのみ十全な生を生きる可能性が出てきます。

私たち各々のなかに、内面的、宗教的な革命がなければなりません。
なぜなら、私たちの考え方を完全に変えるのはこの内面的な革命だけだからです。
そして、この革命をもたらすためには、
判断、非難、比較なしの、心の反応の静かな観察がなければなりません。
現在、心は、その言葉の真の意味において「非創造的」なのではないでしょうか。
それは、蓄積された過去の記憶でもって組み立てられた構成物なのではないでしょうか。
私たちにできるすべては、
その自身の心である実態を理解することだけなのではないでしょうか。

この理解の過程は途方もない仕事です。
それは、毎日、毎瞬、刻々に為されるべきものなのです、明日や明後日にではなく。
私たちが、自身の思考の背後にある隠れた動機・意図・欲求のすべてを見出し始め、
そのことによって私たち自身の限定づけられた過程から解放されるように。
そのとき心は静かです。
そして、その静けさのなかに、心に属するものではない何かが自発的に生じるのです。



根本的な変革と、創造的・心理的な解放をもたらすことができる唯一の方法
―それは、私たちが毎日毎日怠りなく自分自身を観察することなのです。
すなわち私たちの意識的、無意識的な動機を一瞬一瞬目を凝らして見つめていることなのです。
そして訓練や信念は「私」を強化するものに過ぎず、
それゆえそれらは全く無益なものであることを認識し、
それを私たちの日常の中で毎日観察してその真相を理解したとき、
私たちは問題の核心に達したのではないでしょうか。



質問者:観察者のない状態において、どんな行為が可能でしょうか。
―どんな質問、どんな行為が。

クリシュナムルティ:ここでもまた、
あなたは川のこちら側からこの質問をしているのでしょうか。
それともむこう岸からでしょうか。

もし、あなたがむこう岸にいれば、そんな質問はしないでしょう。
もし、むこう岸にいれば、あなたの行為はそこから生まれるでしょう。
ですから、あなたはこちらの岸―その構造、性質、そのすべての罠―に気づいているだけであり、
その罠から逃れようとすれば、また別の罠にはまってしまうことになります。
そのすべてがなんと単調なくり返しでしょう!

気づきは私たちにその罠の性質を明らかにしました。
それゆえ、すべての罠はなくなります。
ですから、今、心は空です。
「私」や罠が空になっているのです。
この心には、異質の、異次元の気づきがあります。
この気づきは、自分が気づいていることにすら気づきません。
あなたがしなければならないことは、
途中で不注意にならずに、ただ始終気づいていることだけです。

この、新しい質の気づきは「注意深さ」です。
そしてこの「注意深さ」には、「私」によって作られた限界がありません。
この「注意深さ」は徳の最高の形であり、
それ故、それは愛なのです。
それは至高の英知ですが、
あなたがこれらの人工的な罠の構造と性質とに敏感でなければ、この「注意深さ」はあり得ません。



自分自身を知ることは並外れた過程です。
自己は瞬時瞬時、決して同じではないからです。
そんなにも多くの矛盾する欲望、強制、衝動があります。
そして、私たちがそのすべてを理解しないならば、どうして心は自由でありうるでしょうか。
自由である心だけが、それ自身の限界を越えた、
それ自身の信念と理論を越えた何かを経験することができるのです。




この問題に対する、たった一つの接近法があると思います。
それは私が、私自身を知り尽くすまで、それを見ることです。
私が、意識と同様無意識を、込み入った動きを伴う心の内容全体を知るまで、
そのすべてを見、それを充分に理解するまで、
それを越えて進むことはできません。
このように私は、自分自身を知ることができるでしょうか。
全体としての私自身を―すべての衝動、動機、恐怖を―知ることができるでしょうか。



私たちの問題は、いかにして「未知のもの」を探し求めるかということではなく、
常に「既知のもの」である精神の蓄積する過程を理解することなのです。
それは非常に骨の折れる仕事です。
それは精神のなかに起こっているあらゆる現象に絶えず目を光らせていることを意味します。
この段階に達するためには、初めから終わりまで、
決して注意の散漫―判断、非難、同一化などがあってはならないのです。
この過程の全体を観察することによって、精神はその中心から―
記憶の蓄積と、それに基づいた反応とから―解放されるのです。
それは、「あるがままのもの」と一体になっていることなのです。



あらゆる思考から絶えずそれ自身を浄化すること。
絶えず空しくしていること。
あらゆる思考、記憶、印象のすべて、
そして未来に対して死ぬことがいかに必要であることか。



生を生きる調和あるやり方があります。
それは、あらゆる経験に完全に出会うとき、
あらゆる行為を心とハートの完全な統一をもって行うとき、
心がそれ自身の内部で分裂していないとき、生じます。



自己を知ることは、
あらゆる思考、あらゆる感情、あらゆるイメージに絶えず気づいていることを通して生じます。
しかし、この気づきは同一化があるなら鈍くされます。

私たちは、自分の思考・感情と自分自身を根深いところで同一化してしまっており、
それによって気づきを妨げています。
そのことを理解し、思いやりのある寛容な離脱の必要性に気づかなければなりません。
判断を中止して、自分の思考・感情の葛藤、それらの矛盾、
隠れた欲望などを観察しなければなりません。
この自己理解から正しい思考が生じるのです。



心は今、みんなが互いに闘いあっている落ち着かない思考の巨大な貯蔵庫ですが、
あらゆる思考に気づいていることによって、それは静まってゆき、
そして完全に停止するのです。
この静けさのなかに真実のものが生じてきます。



ただ、じっと見つめること。
この意識に催される一切の反応―思考、感情、イメージ―
その全てに巻き込まれることなく、ただ、ひたすらに観察すること。



料理、皿洗い、部屋を片付けること、人と話すこと―
何であれ、たとえ何であれ、それをする前に数秒間の沈黙を、
数分間の内面的な静けさを持つことを、これまでやってみたことがあるでしょうか。
その自然で自発的な生き生きとした沈黙があるとき、
能率はまったく違った意味を持ちます。



質問者:自己を知ることは困難な仕事です。

クリシュナムルティ:それはそうですが、しかも尚、そうではありません。
それは努力を伴わない観察力を必要とします。
不断の油断のなさは骨の折れるものです。
怠惰な私たちは、それを他人を通して、たくさん読むことを通して得ようとします。

しかし、自己に関する知識を収集することと、自己を刻々に学ぶこととは全く違ったことです。
そうしている間も私たちは、恐怖と欲望のなかを生き続けるのです。
自身を理解することなしの外面的な行為や活動は、更なる混乱と葛藤へと導くだけです。
自己を知ることを通しての真剣な探求こそが真に宗教的と言えるのです。

宗教的な個人は自分自身から始めます。
自己を知ること―自己認識が、彼の活動すべての基盤となるのです。



真剣な心は絶えず気づいています。
そして、それによってそれ自身を絶えず浄化しています。
そのなかには、いかなる安全性の欲求もありません。
真剣な心は、途方もなく生き生きと鋭いのでなければなりません。



頭脳は、思考・感情を混じえることなく油断なく見張っていた。
完璧に純真で、強烈に敏感であるためには記憶の痕跡を留めぬことである。
一瞬ごとに、選択することなく、
生起してくるあらゆる感覚、思考、感情に気づいていること。
それは精神に、たったひとつの傷跡の形づくられるのも決して許さぬことである。



つまり、「私」とは、この絶え間ない思考の運動そのものなのであり、
それを観察し、理解し、終わらしていくこと以外、私たちに道はないのです。



自己認識―あらゆる瞬間に思考と感情のパターンに耳を傾けること。
既知なるものの連続を打ち砕くのは、まさにこの「見ること」なのである。



このすべてに入り込んで調べるには、とてつもないエネルギーを必要とします。
単に一時間か二時間かの間だけの話ではなく、一日のどの瞬間もの。
通勤するバスのなかで、あなたの仕事場で、
独りで歩いているときに、家族と一緒にいるときに、
この絶え間のない凝視、調査、見守り、学ぶことがなければなりません。
ひとの存在の、内容全体があらわになるよう。
そのとき、あなたは自分が実際に何であるのかを見出し、理解し、
そしてそのなかで自由への扉が開くのを見るでしょう。



全的に鋭敏である心は全く動きを持ちません。それは時間を持ちません。
それは完全な空白、並外れて活発な空白のなかの生を意味します。
心は動きを持たないので空白です。そしてそこから“それ”が機能するのです。

そのとき、ひとつの問いが生じます。

仕事を持ち、事務所に通いながら、
その状態のなかで日常生活を送ることができるだろうか。
心のなかにそれを持って、あたりまえな日常の生活を生きることができるだろうか。
あなたは自分自身でそれを見出さなければなりません。



皆さんの生には、一瞬の静謐も、一瞬の大いなる美の瞬間もなく、
あるのはただ、絶え間ない脳のざわめきだけです。



私たちの生のすべては、考えることに費やされているのではないでしょうか。
私たちの生の大部分は思考の活動です。
思考は、意識的、あるいは無意識的に際限なく働き続けます。
さて、どうやってこの機構を終りにしたらいいのでしょうか。



そこで心は思考なしにあることが、
そして必要なときに思考を用いることができるでしょうか。
それは思考がない心が思考を使いこなし、
思考と共に生きることができるということです。
調和して、一つのものともう一つのものではなく。
そして、これが瞑想です。



質問者:その「気づき」とは、選択のないことですか。

クリシュナムルティ:もし、その「気づき」が選択することであるとすれば、
あなたは気づきが起こるのを妨げています。
気づきに選択がないとき、気づきによってあらゆるものが露わになります。
最も深く覆われているものから、秘められた要求、恐怖や強迫観念などがです。

質問者:ひとは一日に一時間も気づきの状態でいられるでしょうか。

クリシュナムルティ:もし私がたとえ一分間でも気づいており、
注意を払って見張っていられるなら、それで十分です。
私たちの多くは怠惰です、注意深くはありません。
その「注意のなさ」に気づくことが注意です。
気づき・注意に外部はないのです。
一切の選択なしに、はっきりと現実を観察しながら、
自分のなかに起こっているあらゆるものに、たった一分でも気づいているとします。
すると私は注意深さを壊さないまま一時間を過ごせるのです。
さらに私は、それによって時間の終焉にも至るようになるのです。



あなたが本当にこのことに心を注ぐなら、
あなたはこの醜い世界のなかで生き、働き、行為し、
そして同時に、いつもそれ自身を浄化している川のように
頭脳を油断なくしておくことができるのを見出すはずです。



平和は、それを見つけようとするいかなる努力によっても訪れない。
それはあなたが弛みなく見守っているとき、
美しいものと醜いもの、善と悪の両者、
人生のすべての有為転変に対して鋭敏なときに起こる。



それで、そのとき問題は「どうやって瞑想するか」ではありません。
それは本当は間違った質問です。
「どうやって」は方法を意味します。
方法は既知のものであり、
そして既知のものは、あなたを既知のものに導くことができるだけです。

手段が結果を作り出します。
手段が既知のものであるなら、結果は既知のものです。
それで、どうやって心は時間から、過去・現在・未来から、
それ自身を解放させることができるのでしょうか。
それは、あらゆるものに―私たちが今していること全てに、
考えていること全てに、感情の全てに―気づいていることによって可能です。
時間から、現在から、それ自身を解放させるのです。
と云うのは、現在は時間の理解へのドアであり、
そして現在は、
時計、時間表、あなたの日課的な仕事によって示される時間のなかではなく、
あなたが考えつつあることのなかに存在するのです。
あなたが自己を知ることのきっかけを見出すのは、
あなたが考えていることを知ることのなかに、
あなたが感じ、考え、していることに絶えず気づいていることのなかにあるのです。

これが自己を知ることの始まりであり、自己を知ることは瞑想の始まりなのです。
そして、自己を知ることなしに何の瞑想もありません。
瞑想するためには、自己を知ることがなければなりません。

故に「どうやって瞑想するか」という問いは、間違った問いです。
なぜなら、それは未知なるものを見出すために
既知のものである技術・方法を求めているからです。

手段が結果を作り出します。
そして手段が既知のものなら、そのとき結果もまた既知のものであり、
したがって、それは知ることのできないもの、始めも終わりもないものではありません。

自己を知ることが瞑想の始まりです。
気づきを通して、心はそれ自身の活動の全体を自覚し始めます。
そして心の活動の全体を知ることは時間の問題ではありません。
あなたが無選択に(すなわち非難なしに、正当化なしに、同一化なしに)
気づき始めるなら、そのとき自己を知ることは極めて創造的になります。
結局、創造的であるものが創造、実在のものなのです。




私たちはそんなにも鈍くなってしまいました。
そして、それが私たちの困難のあるところだと思います。
私たちは、私たちの全体の敏感さを甦らせ、生き返らせなければなりません。
しかし、あなたは単に「自分は敏感でなければならない」と言うことによって
敏感になれる訳ではありません。

あなたが、行為のなか、思考のなか、感情のなかで、あなた自身に気づいているとき、
そのとき敏感さがあるのです。
確かに、希望、神―あなたがそれに与えたいどんな名前であれ―は、
宗教のなかにではなく、システムのなかにではなく、
あらゆる小さなもののなかに真実を発見しようとする態度のなかに見出されるのです。
もしも、私たちがどこにそれを求めたらいいのかを知るなら、
真実は遥かに遠くにではなく、非常に近くにあるのです。
しかし私たちはそれを求めません。
なぜなら私たちは気づいていないからです。

それで第一に重要なことは気づいていることです。
露わにされる、あらゆる思考、あらゆる感情に、
そんなにも無選択に、そんなにもよく見抜いて気づいていることです。



それは、心を鋭敏にする継続的な調査の過程です。
そして鋭敏にする、まさにその過程のなかで、
心は自発的に現状のままでいることをやめるのです。
そして、そのときにのみ―心が完全に静かで、沈黙しているときにのみ―
心自身のものではない何かを経験する可能性が出てくるのです。





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